一九八九年ベルリンの壁の崩壊とともに東西冷戦が終わり、国際情勢は大きく変貌し、世界は新たな世界秩序を求めて、変革の時代が始まっている。同時進行のIT(情報技術)革命によりその変革はより一層拍車がかっている。日本は、戦後五十年続いた経済最優先の旧体制とバブル崩壊の痛手から抜け出しきれないまま、二十一世紀を迎え、日本国民は新たな小泉政権に変革の大きな期待を寄せている。

ベルリンが東西冷戦のヨーロッパの拠点であったように、沖縄はアジアにおけるもう一つの拠点であった。そのベルリンが新秩序の中でのヨーロッパの拠点として着々と整備され、都市も建物も生まれ変わりつつある。しかし、沖縄は旧態依然として、日本本土と同様に前世紀のままであり、新しい方針を打ち出せずにいる。つまり、敗戦後、アジアの東西冷戦の拠点として米軍支配下におかれ、基地を中心として復興がなされた。そして、一九七二年の日本復興後もやはり基地を温存しながら、いや、温存するために、高率の補助金により日本政府の意向(補助基準)にあわせて、道路や橋、街や建物をつくり、経済繁栄をと成長を誇ってきたのである。しかし、今、世界情勢の変化や日本政府の変革の波が沖縄にも押し寄せつつある。

「米軍基地は国際情勢の中でどうなるのか、沖縄はどうすべきなのか」、小泉政権が押し進めようという構造改革の中で、「思いやり予算や公共事業の見直し」・「地方分権」・「規制緩和」など様々な政策が打ち出されようとする時、公共事業と高率補助に支えられてきた沖縄、特に建設関係者は今、将来への展望と大きな自己改革が問われているのである。
ここ数年私は二度ドイツを訪れた。九七年旧東ドイツのデッサウで行われた国際土地利用会議と、昨年の旧東欧時代の大規模団地再生国際会議。どちらも、東西冷戦の終焉に伴う都市や建築の変革の向けてのヨーロッパの各地域の生き残りを賭けた様々な地域開発や再開発の興味深い報告であった。それぞれの報告に共通する事は、各地域の特性を生かしながら、既成の都市や建物に変革時代の新しい要求や夢、そして形を盛り込み『再生』していく手法であった。

ここで、その再生の分かり易い事例を紹介したい。ドイツ連邦会議新議事堂ライヒスタークは、ブランデンブルク門のすぐ近くに位置し、ネオ・ルネッサンス様式の旧帝国会議堂(一八九四年竣工)の古い建物を「新生ドイツの民主主義と環境保存の象徴」として再生された建物だ。それは、第二次世界大戦によって破壊され、戦後長く廃墟のまま放置されていた。東西ドイツが統一され、ベルリンが再びドイツの首都となり議事堂再生のために建築設計国際コンペが行われ、イギリス人建築家フォスターの案が採用された。設計のコンセプトは、第一に建物を世界の民主的フォーラムとして連邦会議を位置づけること、第二に市民が近付きやすく政治の場に参加できること、第三に歴史に対する理解を深めるもの、そして省エネルギー、環境に配慮した建物につくりかえるこであった。つまり、古い建物を壊し建物を建て替えるのでなく、古い外壁やソ連軍占領時の兵士の落書きや銃痕がある内壁を残しながら建物そのものを歴史を語る博物館として位置づけながら新議事堂を再建した。そして、正面玄関より政治家とともに一般市民や観光客を平等に導き入れ誰もが容易に議場を見れるように周囲の壁や天井をガラス張りとしたこと、また、議場上部にあるガラスのドームはそこからも議場が見渡せるとともにベルリンの街が一望できる展望台となっている。そして、そこは、議場への自然光や空気の出入口でもあり、植物油燃料利用、地下水や地中蓄熱などによって環境負荷がが小さく、しかも省エネの建物にもなっている。このように、一国の国会議事堂を外国人の設計者に任せ、歴史ある古い建物を利用しながら開かれた民主的な議場をつくり、しかも、屋上をベルリン一の観光名所とした環境共生型の先駆的建物である。この事例は、古い建物とドイツ国民の心を見事に「再生」し、活性化させた例であり、これに近い「再生」の手法によって古い建物や旧市街が新しい時代に合ったものに再生されつつある。

アジアの拠点である沖縄も変革の時代にあって、ベルリンのこの「再生」に学ぶ事は多い。新規模事業、地元優先、補助金行政ばかりでなく、これまで造ってきたものをじっくり見直し、「再生」する事も大切である。そして沖縄が日本本土やアジアの新たな拠点として再生しなければならない。一番大切なのは、人まかせにせず自分自身が時代の変革にあわせて、「再生」することかもしれない。ところで沖縄県議会棟は県民のどれくらいの人が見学し、普段どう利用されているのだろうか。やるべき事はたくさんあるようだ。